ネオ・ダダの残響
Echoes of NEO DADAISM ORGANIZERS
2026年5月11日(月)-5月30日(土)
12:00—19:00 土曜日は17:00まで 日曜休廊
赤瀬川原平 風倉匠 篠原有司男 田中信太郎 吉野辰海 +石黒健治(写真)

展覧会チラシ
プレスリリース
■Gallery Talk 5月11日(月) 16:00-16:30 参加費無料・予約不要
吉野辰海・石黒健治(本展出品作家)、菅章(美術評論家)
■Opening Reception 5月11日(月) 17:00-19:00
1960年に結成された前衛芸術グループ、ネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)は、従来の芸術概念を打ち壊すような過激なアクションやパフォーマンス、廃品を用いた作品などで美術界に衝撃を与え、一年にも満たない短い活動期間でありながら、反芸術の旗手として脚光を浴びました。
本展ではネオ・ダダのメンバーから、赤瀬川原平(1937-2014)、風倉匠(1936-2007)、篠原有司男(1932- )、田中信太郎(1940-2019)、吉野辰海(1940- )の作品と、写真家・石黒健治(1935- )が捉えたネオ・ダダの写真を展示いたします。赤瀬川原平は「虚虚実実実話櫻画報」(1973-74)の挿画原画、風倉匠はバングラデシュ・アジア美術ビエンナーレ(1995)でのバルーンパフォーマンスの映像と平面作品、田中信太郎は鉛を用いた《余白の形而情》、そして篠原有司男と吉野辰海は新作を含む絵画を発表いたします。作品、写真、映像、資料あわせて約40点を紹介します。
ネオ・ダダ (ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)
1960年3月、第12回読売アンデパンダン展に出品していた吉村益信、篠原有司男らを中心に結成された前衛芸術グループ。吉村益信の自邸「ホワイトハウス」(磯崎新設計、新宿・百人町)を拠点に、イヴェントやパフォーマンス など過激な活動を繰り広げた。1960年4月「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー展」(銀座画廊)、7月「第2回ネオ・ダダ展」(吉村アトリエ)、9月「第3回ネオ・ダダ展」(日比谷画廊)の、計3回のグループ展を開催。メンバーには、赤瀬川原平、荒川修作、風倉匠、岸本清子、木下新、篠原有司男、田中信太郎、田辺三太郎、豊島壮六、升沢金平、吉野辰海、吉村益信らがいた。
赤瀬川原平
AKASEGAWA Genpei


「虚虚実実実話櫻画報」は、「櫻画報」連載終了後の1973年から翌年にかけて、雑誌「終末から(筑摩書房)で9回にわたって連載された。新聞というメディアの信憑性について懐疑を突きつけ、事実と虚構の境界を攪乱するイラストと文章で構成された。
赤瀬川原平 AKASEGAWA Genpei(1937-2014)
神奈川県生まれ。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵科中退。1963年ハイレッド・センターを結成。千円札裁判、路上観察学会、ライカ同盟、執筆活動など芸術活動は多岐にわたる。1981年『父が消えた』で第84回芥川賞受賞。1995年「赤瀬川原平の冒険-脳内リゾート開発大作戦」名古屋市美術館。2014年「赤瀬川原平の芸術原論展-1960年代から現在まで」千葉市美術館。
風倉匠
KAZAKURA Sho


風倉匠 KAZAKURA Sho(1936-2007)
大分県生まれ。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵科中退。錬金術的オブジェや巨大なバルーンを用いた独自のパフォーマンスなどを展開する。1986年「前衛芸術の日本 1910-1970」ポンピドゥ・センター、パリ。1995年「第7回バングラデシュ・アジア美術ビエンナーレ」バングラデシュ。2003年「-さわれる原風景を探す-風倉匠展」大分市美術館。
篠原有司男
SHINOHARA Ushio


篠原有司男 SHINOHARA Ushio(1932- )
東京都生まれ。東京藝術大学美術学部油絵科中退。1969年ロックフェラー三世奨学金によりNYに渡り、永住。映画「キューティー&ボクサー」が2014年アカデミー賞ノミネート、2016年エミー賞受賞。2005年「篠原有司男 ボクシング・ペインティングとオートバイ彫刻」神奈川県立近代美術館鎌倉。2017年「篠原有司男展 ギュウちゃん、“前衛の道”爆走60年」刈谷市美術館。
田中信太郎
TANAKA Shintaro


田中信太郎 TANAKA Shintaro(1940-2019)
東京都生まれ。フォルム洋画研究所に学ぶ。緊張感と優美さを内包したミニマルな作品を数多く手がける。1972年第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表。2001年「田中信太郎-饒舌と沈黙のカノン」国立国際美術館。2020年「田中信太郎-風景は垂直にやってくる」市原市湖畔美術館。2026年「田中信太郎-意味から遠く離れて」世田谷美術館。
吉野辰海
YOSHINO Tatsumi


吉野辰海 YOSHINO Tatsumi (1940- )
宮城県生まれ。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵科中退。森羅万象の運動を、ユーモアと自嘲を感じさせる「犬」の形象に宿した作品を数多く作り続ける。2002年「熊本国際美術展 ATTITUDE 2002」熊本市現代美術館。2007年「六本木クロッシング2007:未来への脈動」森美術館。2012年「清水晃・吉野辰海 漆黒の彼方/犬の行方」埼玉県立近代美術館。
写真:石黒健治 ISHIGURO Kenji(1935- )
福井県生まれ。桑沢デザイン研究所在学中に、写真協会新人奨励賞を受賞。受賞展はネオ・ダダなどを撮影した「不幸な若者たち」。写真集に『広島NOW』『青春1968』『ナチュラル ONENESS』『不思議の国』など。1982年、『無力の王』(東映セントラル)を監督。1994年「ネオ・ダダの写真」福岡市美術館。1995年「‘95ネオ・ダダ<一断面>展-記録写真を中心に-」大分市コンパルホール。




展覧会パンフレット
『ネオ・ダダの残響』
《ネオ・ダダ事始 ―条件を壊した反芸術 》 菅 章(すが・あきら 美術史家/美術評論家)
ネオ・ダダは、しばしば「乱暴」「ふざけ」「騒ぎ」として語られてきた。展覧会場に廃材や既製品のガラクタを持ち込み、叫び、暴れ、都市空間でも騒動を起こす。作品として残りにくく、出来事だけが記憶され、“騒ぎ”に見えやすい。しかしネオ・ダダの重要さは、その騒ぎが「作品の中身」以上に、「作品が成立する条件」そのものを揺さぶった点にある。作品が芸術として成立するには、画廊や美術館、展覧会、批評、市場や保存――目に見えない条件が要る。作品は物として存在するだけでは十分ではない。展示の場と鑑賞の作法、都市や公共空間の管理、そして語られ記録されることで生まれる価値――それらが重なり合うとき、物は作品になる。ネオ・ダダが壊しにかかったのは、作品という物体よりも、こうした条件の連鎖だった。
ネオ・ダダとは、1960年代初頭に東京で活動した若い前衛美術家たちの動きである。結成当初、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを名乗り、活動拠点となったのは吉村益信のアトリエ(通称・新宿ホワイトハウス)だった。メンバーは吉村、篠原有司男を中心に、赤瀬川原平、荒川修作、風倉匠、豊島壮六、田中信太郎、吉野辰海らで、周辺に工藤哲巳、三木富雄といった曲者も出入りした。彼らは厳密な規約や綱領をもつ組織というより、短期間に同じ熱を共有した集合的現象であり、理論より先に行動が噴き出した。
当時、読売アンデパンダン展は「無審査=自由」を掲げ、若い作家に発表の場を与えた。だが「何でも展示できる」場は、あらゆる表現を“展示の一単位”として並列化し、尖りさえ制度の内部で処理してしまう。そこで彼らは、展覧会に作品を置くだけでなく、展覧会という形式そのものを揺さぶる方向へ向かう。そのことは三回のネオ・ダダ展と都市行為によって、端的に表れる。
まず第一回展(銀座画廊)で起きたのは、展覧会場での暴走だった。奇声を上げ、暴れ、会場の秩序が崩壊する。壊されたのは作品ではなく、「展覧会は静かに鑑賞される」という前提である。距離、沈黙、管理、礼儀――展覧会の条件が身体行為で露出する。観客は“見る者”としての位置を失い、展示空間は出来事の場へ変質する。
しかも彼らの行為は画廊の中だけでは終わらない。展覧会のチラシを体に巻き付けた吉村らが銀座の街に繰り出すなど、都市空間でのパフォーマンスも行われる。これは画廊内の騒ぎが“展覧会の出来事”として回収されてしまうことへの抵抗でもある。画廊は管理された空間であり、過激さでさえ「前衛の余興」として処理しやすい。だから彼らは、より回収されにくい場――都市という公共空間へ出ていく。出来事を制度に飲み込まれる前に突き刺すため、街へ出る必要があった。
だが皮肉なのは、その“回収されにくさ”が、別の回路から回収されることでもある。ネオ・ダダは作品をほとんど残さない。しかし出来事は、写真家の眼によって繰り返し記録され、紙面や図録、回顧の言説の中で流通する。東松照明、石松健男、石黒健治、小林正徳、ジャクリーヌ・ポール――彼らは第一回展の暴走だけでなく、ホワイトハウスでの場の生成、都市空間での行為、第三回展の公共空間への拡張に至るまで、ネオ・ダダを“目撃”した。写真は単なる記録ではない。残らない出来事に反復可能な形を与え、「見られ」「語られ」「価値づけられる」対象へ変換する。つまりネオ・ダダは、展覧会制度を揺さぶると同時に、「記録(写真)を介した作品化」という第二の装置とも不可避に絡み合う。だからこそ彼らの反芸術は、“ただの騒ぎ”で終わらず、後からも繰り返し参照され続ける。
第二回展では、会場が「借りられない」という事態に遭遇する。第一回展の暴走が知れ渡り、次の展覧会を開こうとしても、どこも貸してくれないのだ。ここで露わになるのは、「展示の自由」が画廊制度の信用と管理に支えられているという現実だ。そこで会場はホワイトハウスとなり、乱痴気パーティーを伴う修羅場と化す。制作と生活と酒宴が混ざり合い、展覧会は「作品を見せる形式」から「場そのものが出来事になる形式」へ変質する。制度に締め出されたことで、彼らは場を自分たちで生成するしかなくなる。ここには、後のオルタナティブ・スペース的発想がある。
第三回展では問題がさらに外へ拡大する。東京都が運営する日比谷画廊をようやく借りられたというのに、画廊内にとどまることができず、日比谷公園など公共空間へも廃材を持ち込み騒動を繰り広げる。升沢金平の《帝国ホテル》という汚物芸術まで飛び出し、会期途中で締め出される。だがこの排除こそが重要である。展覧会は自由を掲げることができる。しかし制度が処理不能な形で展覧会そのものが壊されるなら、制度は排除するしかない。つまり自由には条件がある。ネオ・ダダはこのことを、思想ではなく身体で示した。彼らが破壊したのは作品ではなく、“作品が作品として認定される仕組み”だったのである。
そしてこの亀裂は、読売アンデパンダン展がやがて終焉していく過程とも響き合う。無審査・自由出品という理念は、制度としての器が大きくなるほど、尖りを並列化し、処理してしまう。自由を掲げる制度は、自由の実力行使に直面したとき、その自由をどこまで抱え込めるのか――管理の強化か、排除か、あるいは消滅か。ネオ・ダダが突き刺したのは、まさにその限界だった。
ただしネオ・ダダは一枚岩ではない。短い期間の内部には、後につながる重要な分岐が折り畳まれていた。ここで今回出品の五人の作家について、制度への介入という視点から要点を押さえておきたい。
赤瀬川原平の反芸術は、破壊そのものより、制度が当たり前としている規則をずらし、露出させる方向へ向かう。パロディ・ジャーナリズムはその典型だ。行為を起こして終わるのではなく、それを記事や報道の形式に変換し、事件として増幅する。ここで露わになるのは、作品が価値を持つのは物体としての作品だけでなく、それを取り巻く言葉や情報の流通が制度を作動させるという事実である。千円札裁判も同じ構造を持つ。通貨も芸術も、それが価値として成立するのは社会的な約束と制度が支えているからであり、赤瀬川はそれを冷えたユーモアで揺さぶった。
風倉匠の重心は、作品の形態ではなく身体が置かれる状況そのものにある。都市は規範に満ちた場であり、そこへ身体が侵入することで日常の秩序が微細に揺らぐ。重要なのは、彼の実践が国内の“前衛美術”として閉じるのではなく、世界的なパフォーマンスの文脈で評価されうる射程を持っていた点である。芸術を生活へ接続する理想というより、生活の場に潜む規範と身体の摩擦を、都市という巨大な制度の表面(通行や占有)に刻印する。その意味で風倉は、ネオ・ダダの問題意識を外へ開き、国際的文脈へ接続する回路でもあった。
篠原有司男は、ボクシング・ペインティングに象徴されるように、制作の身振りを極限まで露出させた。絵画を完成品ではなく衝突の場へ戻し、制度化した絵画を不安定化する。打撃は表現というより出来事であり、そこでは「完成」「鑑賞」「保存」という条件が揺らぐ。さらにオートバイ彫刻は、運動と速度、機械の暴力性を彫刻の内部にそのまま走らせる。止まった形としての彫刻に、現実のエネルギーを侵入させる。篠原は作品を「作られた形」ではなく「発生する力」として提示し、芸術を安定した形式へ回収する力学に抵抗した。
田中信太郎は物質の直接性に賭け、物を意味から解放する。廃材や既製品は比喩や象徴にならず、ただそこにある。その姿勢は一見ネオ・ダダの荒々しさに見えながら、同時にミニマル・アートが志向した非表象性、物の自己同一性にも接近する。問われるのは「何を表すか」ではなく、「なぜこれが作品になってしまうのか」である。物が「ただある」だけで作品が成立してしまう――その条件を、田中は騒ぎではなく物の沈黙で突いた。
吉野辰海の攪乱は遊戯や冗談の形式をまとい、しかし無害な笑いにはとどまらない。笑いは出来事を軽くし回収する装置にもなるが、同時に制度の足場を揺さぶる刃にもなる。その二重性を引き受ける点に、ネオ・ダダの“ふざけ”の鋭さがある。ここで犬という存在は象徴的だ。犬は都市の秩序にとって周縁的でありながら、管理、衛生、飼育、愛玩といった共同体の規範を可視化してしまう媒介でもある。吉野はその曖昧な生命を通じて、制度の輪郭――何が公共で何が私的か、何が許容で何が排除か――を冗談の形で浮かび上がらせた。
今回、写真で参加の石黒健治は、ネオ・ダダと同世代。デビュー作ともいえる「不幸な若者たち」というシリーズでホワイトハウスでの第2回ネオ・ダダ展の狂乱を激写し、1960年の若者と風俗を見事に表現した。ちょうど第3回のネオ・ダダ展開催と同時期に開催していた石黒の写真展会場(銀座)に乱入したネオ・ダダメンバーに同行し、日比谷画廊での一連のネオ・ダダ写真が生まれた。瀧口修造や東野芳明らと談笑する貴重なワンショットや日比谷公園で大暴れのパフォーマンスを繰り広げる、ダイナミックなネオ・ダダのドキュメントを定着させた。
ネオ・ダダは短命だった。しかしその短さは未成熟を意味しない。理論化や体系化へ向かう前に、制度への違和が身体と物質のレベルで噴き出し、展覧会の条件に直接触れてしまったことが亀裂として残った。ネオ・ダダは過去の逸話ではない。「芸術とは何か」以前に、「芸術が成立する条件は何か」を問う。その問いを、画廊の内部と都市の外部の両方で、騒ぎと身体によって先に投げつけた――それがネオ・ダダだった。
