戦後80年 1945年の記憶
Memories of 1945: 80 Years after the War

2025年6月25日(水)-7月18日(金)
12:00-19:00 土曜日と最終日は17:00まで 日曜休廊

赤瀬川原平、石内都、篠原有司男、中村宏、吉野辰海

石内都《ひろしま #132》 donor:Iijima, N. and Iijima, S.
2019年 発色現像方式印画  Courtesy of The Third Gallery Aya


2025年は戦後80年という節目の年を迎えます。第二次世界大戦を体験した世代の多くは鬼籍に入りつつあり、戦争の記憶が日々薄れてゆく中、世界では依然として戦火が止むことはありません。本展では、戦後の日本を代表する5人の美術家が、それぞれの視点から戦争の記憶や体験を投影した作品を紹介します。

1945年、篠原有司男(当時13歳)は東京・麹町から中野の親戚宅に身を寄せたのち、空襲で実家は全焼し、疎開先の長野県佐久市で終戦を迎えます。中村宏(当時12歳)は軍需工場が密集する静岡県浜松市で日々繰り返される爆撃に怯え、機銃掃射に2度遭遇し、死と隣り合わせの日々を過ごします。赤瀬川原平(当時8歳)は空襲の激しい大分市内で防空壕に入ることが日常化し、深夜の大空襲で死を覚悟したといいます。吉野辰海(当時5歳)は花火のように燃え上がる仙台大空襲の光景が今も鮮明に蘇ると語っています。終戦の2年後に生まれた石内都は米軍基地の街・横須賀で育ち、広島の原爆資料館に毎年納められる遺品の撮影を2007年から続けています。

本展では、篠原有司男、中村宏、吉野辰海が自身の戦争記憶と向き合った絵画、赤瀬川原平の戦争に関するエッセイの自筆原稿とイラスト、石内都の写真「ひろしま」シリーズを展示いたします。篠原と吉野は本展のために描いた2025年の新作を発表します。
戦争の記憶が私たちの日常から遠ざかっていくいま、それぞれの美術家が語る「1945年の記憶」を通じて、過去の出来事と向き合い、未来へと繋がるメッセージを受け止めていただければ幸いです。

チラシ


赤瀬川原平
AKASEGAWA Genpei

赤瀬川原平《終戦》
1975年 ペン、紙 10.8×16.8cm
赤瀬川原平《玉音放送を聞いて家路に》原稿
2006年 21.0×29.6cm
赤瀬川原平 展示風景




赤瀬川原平 AKASEGAWA Genpei(1937-2014)

神奈川県横浜市生まれ。父の転勤で1941年大分市に転居し、まもなく太平洋戦争が開戦となる。大分市には軍事施設があり、終戦間際になると市の中心部では空襲が激化し、防空壕に避難する日々を送る。深夜の大空襲で死を覚悟する。玉音放送は自宅の三畳間で正座して姉・母と三人で聞く。

武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵科中退。1960年ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを、1963年ハイレッド・センターを結成。千円札裁判、路上観察学会、ライカ同盟、執筆活動など芸術活動は多岐にわたる。1995年「赤瀬川原平の冒険-脳内リゾート開発大作戦」名古屋市美術館。2014年「赤瀬川原平の芸術原論展-1960年代から現在まで」千葉市美術館。


石内都
ISHIUCHI Miyako

石内都《ひろしま #59》
2007年 発色現像方式印画 Courtesy of The Third Gallery Aya
石内都 展示風景 撮影:末正真礼生


石内都 ISHIUCHI Miyako(1947- )

終戦の2年後、群馬県桐生市に生まれる。6歳のとき父の仕事で横須賀に転居し19歳まで過ごす。石内が暮らした横須賀の街は、米軍基地の雰囲気が重くのしかかり物騒で息苦しく、隣町には赤線があり、石内にとっては嫌悪と憎悪の対象であった。横須賀での思春期の痛みの仇討ちとして撮った「絶唱・横須賀ストーリー』(個展は1977年/写真集刊行は1979年)で、写真家としてのデビューを果たす。2007年より、広島平和記念資料館に毎年納められる被爆者の遺品の撮影を続けている。

多摩美術大学染織専攻中退。独学で写真を始め、時間の痕跡や存在と不在、記憶を表現し続ける。1979年第4回木村伊兵衛賞受賞。2005年第51回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表。2008年「ひろしま Strings of Time」広島市現代美術館、「ひろしま/ヨコスカ」目黒区美術館。2017年「石内都 肌理と写真」横浜美術館。2024年「石内都 STEP THROUGH TIME」大川美術館。Woman in Motion受賞(フランス)


篠原有司男
SHINOHARA Ushio

篠原有司男《防空壕堀りで張切るおやじ》
2025年 アクリル、ペン、紙 30.0×22.cm
篠原有司男 展示風景


篠原有司男 SHINOHARA Ushio(1932- )

東京都千代田区麹町生まれ。空襲の激化に伴い中野の親戚宅に身を寄せ、そののち空襲で麹町の実家は全焼し、命拾いをする。中島飛行機に勤めていた父は東京に残り、母・弟と3人で長野県御代田村の農家に疎開する。浅間山が見えるのどかな自然に囲まれた疎開先では勤労奉仕の日々を送る。農家の人が畑に肥を撒いているときに終戦の知らせを聞く。

東京藝術大学美術学部油絵科中退。1960年ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成。1969年ロックフェラー奨学金によりNYに渡り、永住。映画「キューティー&ボクサー」が2014年アカデミー賞ノミネート、2016年エミー賞受賞。2005年「篠原有司男 ボクシング・ペインティングとオートバイ彫刻」神奈川県立近代美術館鎌倉。2017年「篠原有司男展 ギュウちゃん、“前衛の道”爆走60年」刈谷市美術館。

TOKYO ART BEAT 2025年7月15日 篠原有司男


中村宏
NAKAMURA Hiroshi

中村宏《空襲》
2022年 アクリル、紙 22.0×22.0cm
中村宏 展示風景


中村宏 NAKAMURA Hiroshi(1932- )

静岡県浜松市生まれ。女学校創始者の家に生まれ、高校卒業まで校舎敷地内にあった自宅で過ごす。基地や軍需工場が密集する浜松は空襲警報が毎日響き、死と隣り合わせの日々を送る。戦闘機が低空飛行する機銃掃射に2度遭遇する。空襲の激化にともない気賀町に疎開。市街地に二千発の砲弾が撃ち込まれた艦砲射撃を気賀町から見る。

日本大学芸術学部在学中、青年美術家連合に参加。1950年代にルポルタージュ絵画で注目を集め、その後「モンタージュ絵画」「観念絵画」など独自の方法論による作品を展開。2007年「中村宏|図画事件1953-2007」東京都現代美術館/名古屋市美術館。2010年「タブロオ・マシン〔図画機械〕-中村宏の絵画と模型」練馬区立美術館。2015年「絵画者 中村宏展」浜松市美術館。2026年1月から静岡県立美術館で個展開催予定。

TOKYO ART BEAT 2025年8月5日 中村宏インタビュー


吉野辰海
YOSHINO Tatsumi

吉野辰海《殺すな》
2025年 鉛筆、紙 32.7×25.0cm
吉野辰海 展示風景


吉野辰海 YOSHINO Tatsumi (1940- )

宮城県船岡村生まれ。戦時中、戦意高揚のために出版された『大日本帝国海軍図鑑』に掲載されていた藤田嗣治《アッツ島玉砕》に魅かれる。子供ながら、花火のように燃え上がる仙台空襲の光景を鮮明に覚えている。東北本線船岡駅の近くに自宅があり、戦後の貧しい時期、線路上で身投げした死体や行き倒れの人などを数多く見ている。敗戦の年に食糧難の中で愛犬が失踪した出来事がきっかけで、その後の制作において「犬」が生涯のモチーフとなる。

武蔵野美術学校油絵科中退。1960年ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに参加。森羅万象の運動を「犬」の形象に宿した作品を数多く作り続ける。2002年「熊本国際美術展 ATTITUDE 2002」熊本市現代美術館。2007年「六本木クロッシング2007:未来への脈動」森美術館。2012年「清水晃・吉野辰海 漆黒の彼方/犬の行方」埼玉県立近代美術館。


撮影:末正真礼生

桐生タイムス 2025年6月12日(木)
静岡新聞朝刊 2025年6月26日(木)
毎日新聞夕刊 2025年7月3日(木)
大分合同新聞朝刊 2025年7月4日(金)
日本経済新聞夕刊 2025年7月5日(土)
ぴあニュース 2025年7月6日
読売新聞朝刊 2025年7月7日(月)
西日本新聞朝刊 2025年7月7日(月)
美術手帖Web版 2025年7月10日(木)
朝日新聞夕刊 2025年7月12日(土) 社会面
朝日新聞Web版 2025年7月12日(土)
TOKYO ART BEAT 2025年7月15日(火) 篠原有司男
TOKYO ART BEAT 2025年8月5日(火) 中村宏
静岡朝日テレビ 2025年8月13日(水) 中村宏
SBS静岡放送 2025年8月18日(月) 中村宏
artscape 村田真|美術遊歩08─戦後は続くよいつまでも? 2025年9月17日(水)


パンフレット『戦後80年 1945年の記憶』

A4判 12ページ 無料配布
寄稿:菅章(美術史家/美術評論家)
「戦争の記憶と美術-戦後80年の視点」
発行日: 2025年6月25日
発 行: ギャラリー58

展覧会パンフレット
『戦後80年 1945年の記憶』
《戦争の記憶と美術― 戦後80年の視点》
菅 章(すが・あきら 美術史家/美術評論家)

戦後80年の意味

 1945年は日本人にとって決して忘れることができない太平洋戦争終結の年である。米国による広島、長崎への原爆投下、ソ連対日参戦、激烈な地上戦となった沖縄戦、そして東京大空襲をはじめとする日本各地で繰り広げられた空襲の数々、これらはすべてこの年に集中している。
 あれから80年。唯一の戦争被爆国であり、完膚なきまでに連合国に叩き潰され、焦土と化した日本であったが、目覚ましい勢いで戦後の復興を遂げ、その後は戦争に巻き込まれることなく現在に至っている。この奇跡のような常態化した平和の中で、戦争を経験した世代の多くが鬼籍に入りつつある昨今、戦争が風化し、はるか遠い現実感のない20世紀の年代記に記述され、現代の日本人の記憶から失われつつある(のではないか)という危機感を覚える。
 一方、世界ではいつの時代にも戦争や紛争が繰り返されてきた。冷戦後、唯一の超大国として国際秩序を主導してきた米国は、国内問題などで衰退し、かつての威光を失いつつある。近年の中国の軍備拡張やロシアの覇権主義、戦略的パートナーシップの強化などパワーバランスの変化は、ウクライナ戦争やパレスチナ・イスラエル戦争の長期化を招来し、インド太平洋、東アジアでも軍事的緊張が高まっている。日本の平和も世界の不穏な動向や激変する世界情勢の中で、きわめて不安定な状況下にあることは言うまでもない。

 今回、ギャラリー58 では「戦後80 年 1945年の記憶」と題し、これまで正面から語られることが少なかった「戦争と美術」というテーマで、戦後の日本を代表する5 人の美術家の、戦争の記憶や体験を投影した作品を紹介する。
 「戦争と美術」という重いテーマを設定すると、いきおい15年戦争時の戦争記録画のトピックへと結びつきがちだが、ここでは子どもから青春時代に戦争を体験し、戦後民主主義を生きてきた1930年~40年代生まれの美術家がどのように戦争を受けとめ、表現へとつなげていくのかにフォーカスする。それは記録画というより、自ら体験した戦争の記憶から発した戦争記憶画と呼ぶべき試みである。
 5人の境遇、立場、体験など、ことごとく異なっているが、底流にあるのは戦争という未曾有の極限状況とそれがもたらす不安や葛藤、トラウマである。そして、それらと向き合う美術家それぞれの表現のベクトルの方向性や感受性の違いから、戦争と美術の関係を多層的、複合的に垣間見る機会となることを期待したい。それは一見、個人的なアプローチでありながら、復興の影に隠された傷痕や未解決の戦後に光を当てることであり、世界の中の日本における、戦後80年の意味をいま一度問うことでもあるだろう。

Ⅱ それぞれの1945年

 篠原有司男13歳~長野県御代田村(疎開先)、中村宏12 歳~静岡県気賀町(疎開先)、赤瀬川原平8歳~大分県大分市(自宅)、吉野辰海~ 5歳、宮城県船岡町(自宅)。
 これは1945年8月15日の正午、日本が太平洋戦争に敗戦し、ラジオから玉音放送が流れた時、それぞれが終戦を迎えた年齢と場所である。そして石内都はその1年7か月後、群馬県桐生市で生まれる。
 年長者の篠原と中村はともに1932年生まれで、早生まれの篠原が学年は一つ上。学徒動員は免れたものの、45年には国民勤労動員として勤労奉仕に従事。彼らより3,4歳年長であれば、池田龍雄のように海軍航空隊に入隊し、予科練習生となったかもしれないし、さらに4、5歳以上年長であれば、学徒出陣で戦地に赴き、戦没画学生となった可能性が高い。

 今回の出品者の中で、最もダイレクトに戦争を体験し、死を意識する恐怖を感じたのは中村宏かも知れない。浜松の女学校創始者の家に生まれ、高校卒業まで校舎敷地内にあった自宅で過ごした。学校の近くに軍需工場があったため、空襲警報が毎日響き、自宅の庭や学校裏山の斜面の横穴防空壕に避難した。空襲が激しくなり、校長だった父が自宅に残り、子どもたちは気賀町の親類の家に疎開。鉄道で市街地に通学したが、空襲警報のたびに避難を繰り返す毎日であった。戦闘機が低空飛行する機銃掃射にも2度遭遇している。市街地に2千発の砲弾が打ち込まれた7月29日の艦砲射撃で、気賀町から夜空を焦がす閃光を見て、父の死を覚悟したという。これら恐怖の体験が中村宏のその後の価値観、芸術観に反映されているのは確かであろう。

 篠原有司男は、終戦こそ疎開先の長野県御代田村の農家で迎えたが、45年3月9日、10日の東京大空襲を目撃している。麹町の長屋に住んでいた篠原一家は、空襲の激化に伴い中野の親戚の家に身を寄せた。引っ越したのち東京大空襲があり、麹町の家は全焼し、命拾いをしている。その時、下町が燃える様子を見たことや防空壕に避難したことをあっけらかんと語る篠原。命の危険は感じなかったという。その後長野県の農家に3、4か月ほど疎開し、終戦を迎えた。長野では浅間山が見えるのどかな自然の中で、勤労奉仕の毎日だった。空襲で防空壕に入る経験や戦中戦後の食糧統制など苦しい経験をした篠原だが、幸いにも身内に戦死者が出ることなく、戦中の不安、戦後の混乱の中でも驚く程ポジティブで、重く受け止めていないのが不思議だ。

 赤瀬川原平は上記二人から4、5歳離れており、終戦時8歳。横浜で生まれ父親の仕事の関係で大分に越してきたのが4歳。まもなく太平洋戦争が開戦となったが、当時の朝日新聞を見て知ったというから、かなりませた子どもだった。大分市には第12海軍航空廠などの軍事施設があったため空襲は激しかった。終戦間際になると市の中心部では空襲が頻繁になり、防空壕に入ることが日常化していた。小学生の赤瀬川は、深夜の大爆撃の恐怖で死を覚悟したという。焼け野原となった大分で、終戦後、赤瀬川家を襲ったのは父の失職と貧困であった。この時味わった貧困体験は貧乏性へと発展し、オブジェや紙幣への執着というトラウマとなって、後の国家を敵にした千円札裁判という赤瀬川のもうひとつの戦争へとつながっていく。

 吉野辰海は、阿武隈川の支流の盆地、船岡町の出身。土建業を営む父親が41歳の時、9人兄弟の7番目の子として生まれた。戦争を一番身近に感じたのは仙台空襲で、子どもながらその光景を鮮明に覚えている。美術への目覚めは5歳頃、『大日本帝国海軍図鑑』を見て、藤田嗣治の《アッツ島玉砕》に惹かれたという。吉野の戦争体験はむしろ戦後の混乱期の記憶かも知れない。幼かった吉野には戦後の荒廃した街の、川に捨てられた機関銃の弾などが遊び道具であった。また、東北本線の船岡駅の近くに自宅があったため、線路上で身投げした死体や行倒れの人などをこの時期数多く見ている。さらに、敗戦の年の秋、食糧難の中、愛犬のジャーマンポインターが失踪した事件は、吉野の心に暗い影を落とし、犬が終生のモチーフとなるきっかけとなった。

 石内都にとって「1945年」は、6歳の時に引っ越してきた横須賀との出会いから始まる。戦勝国の兵士が我が物顔で歩く基地の歓楽街は、赤線があり、米国という男性原理の力に凌辱された場所であった。その後、成人してカメラという武器を手にした石内は、かつて疎外された街を撮った。それは弱者として少女時代に受けた傷、痛みへのかたき討ちのようであった。初めての個展「絶唱・横須賀ストーリー」(1977)では、黒く粒子の荒いモノクロームの画質が、物質的な存在感を滲ませた。このデビューから30年後、石内は「ひろしま」の撮影に着手した。「ひろしま」は1945年に被爆した人たちの遺品を撮影したシリーズであり、今回のテーマそのものである。しかし石内がそこにたどり着くまでには、いくつかのハードルが存在していた。 

Ⅲ 戦争の影と美術の表現

 さて、今回の出品作家が、どのように戦争の記憶と向き合い、表現へとつながったかについて、考察してみたい。
 中村宏は2022年に初めて、自身が子どもの頃に体験した戦争記憶画を描いた。そもそも中村の戦争体験は戦後のルポルタージュ絵画として、敗戦後のさまざまな社会問題を暴いてきた。各地の米軍基地反対闘争等を実地取材によって、まだ戦争が終わっていないことを示した。《空襲》をはじめとする今回の出品作は、戦争の記憶に正面から向き合ったシリーズである。そこには炎の中で、落下してくる爆弾が大きく描かれており、凄まじい迫力、臨場感である。92歳を迎え、今なお絵画の可能性を追求し続ける画家は、戦争の恐怖体験の記憶が自身の心身に刻まれ、それをいやがおうにも表現することの必要性を強烈に感じ、新たな挑戦を始めた。

 篠原有司男は《防空壕掘りで張切るおやじ》《都心は大火らしい》《長野県浅間山麓に疎開中》など新作を出品。これらは、戦争の悲惨さよりも、その時に感じたヴィヴィッドな感情を定着している。まるで昨日に見た光景を再現するような躍動感にあふれている。それにしても、なぜ篠原は戦争の記憶を絵にできるのであろうか。おそらくそこにはイメージのデータベースが埋蔵され、そのファイルからすぐにでも取り出せる篠原の直観像のような特異な才能があると考える。篠原が絵を描く姿を見ると、対象をじっくり観察などしていない。過去も現在も未来も等価に反応しながら、記憶のデータベースと瞬時に見て感じたばかりの現在がスパークする。センチメンタルと無粋が嫌いな篠原は今にしか生きていないのだ。

 故人である赤瀬川原平は、今回ご遺族の協力で、戦争をテーマに書いたエッセイ『玉音放送を聞いて家路に』の生原稿(2006年)と70年代半ばのパロディ・ジャーナリズム時代の作品である《ピカドン》(1974年)と《終戦》(1975年)を出品。「ピカドン」は原爆を形容する俗称として丸木位里・俊による1950年の絵本などでも知られ、子どもたちに浸透していた。《ピカドン》の初出は、筑摩書房が発行していた『終末から』という「終末論、破滅、反体制」を軸に思想と関係なく、あらゆる社会問題に論陣を張った過激な雑誌であった。1970年代は赤瀬川にとって苦しい時代で、70年5月に千円札裁判の最高裁上告が棄却され、美学校で教えたり、アンダーグラウンド的な雑誌に投稿をしたりして糊口を凌いでいた。裁判後の過激さや反体制的テーマにあふれた当時の作風から改めて赤瀬川の多面的才能を感じる。

 吉野辰海は新作描きおろしを出品。《腸(はらわた)は続くヨどこま…1952》は、吉野が少年時代に目撃した、線路上で身投げした切断死体を俯瞰的構図で描いている。上半身と下半身が切断され、ロープのように延びた腸でつながる壮絶な姿は、記憶の糸を手繰り寄せ描いた戦争関連死の記憶画ともいえる。《殺すな》は吉野の友人、ダダカンこと糸井貫二が、1970年9月に仙台で行ったベトナム反戦運動のパフォーマンス写真と、『アサヒグラフ』に掲載された長崎原爆投下翌日の爆心地付近の写真をモンタージュしたドローイングである。そこには「私たち人類という種は、同類を殺すという行動を止めることができるだろうか」という吉野のメッセージが込められている。ちなみに「殺すな」は、ベトナム戦争時の1967年に日本のベ平連が「ワシントンポスト」紙に出した声明で、「殺すな」の文字は岡本太郎が揮毫。

 石内都の「ひろしま」は現在も継続中のシリーズだが、彼女が広島と向き合うまでには多くの葛藤があった。高校時代、図書館で土門拳の写真集『ヒロシマ』を見た時の衝撃は大きく、広島の現実を受け止めきれなかった。その後石内は、自身の身近な横須賀やアパートを被写体とした作品などを経て、徐々に「身体」や「傷跡」へと関心を深めていく。転機となったのは2000年、母の遺品を撮影した「Mother’s」である。これがきっかけとなり、個人的な記憶が普遍的なものへと変化し、広島へと向かう道が開かれた。「ひろしま」では従来の戦争や反戦の文脈ではなく、女性たちが身にまとったワンピースなど被爆者の遺品が色彩や質感をもって記録され、日常に残された感触や存在を静かに伝えている。これは過去の男性的なカタカナの「ヒロシマ」像とは異なる、石内独自のやさしさと美しさに包まれた視点の、ひらがなによる「ひろしま」の表現なのである。

Ⅳ 終わらない戦後

 戦争は美術家たちに直接・間接的を問わず大きな影を落とし、さまざまな感情複合(コンプレックス)を植え付ける。そのトラウマによって表現が始まり、また表現することによって克服や救済へとつながることもある。例えば、中村宏の作品に登場したセーラー服の女学生たちは戦時中、恐怖や絶望におののく弱者の象徴であり、90歳を過ぎて描いた戦争記憶画は、終わらない自身の戦争記憶へのルポルタージュである。篠原有司男は戦勝国である米国に乗り込み、93歳の現在も、前衛美術の戦士としての闘いを挑み続けている。そこには篠原のポジティブなエキサイト主義がエネルギッシュに燃焼し続けている。赤瀬川原平は千円札裁判という、日本近代国家のいびつな自画像との戦いに敗れた後、パロディで反撃し、超芸術で脱国家的境地に至った。吉野辰海の戦後は愛犬の失踪とダダとの出会いによって、犬にさまざまな矛盾や悲しみを投影した。そして近年、アイロニーとユーモアを含みながら、メッセージの強度を増しつつあるように感じる。戦後生まれの石内の戦争とのかかわり方には、広島平和記念資料館に眠る膨大な遺品たちを自然光のもとで現在によみがえらせ、終わっていない戦争と日常を等身大で体感させるという新たな視点を感じる。それは不在性を暗示しながら、過去と現在を架橋する愛おしいものたちに向けた、哀しく美しい挽歌でもある。