自画像:Reflections
Self-portraits: Reflections
2024年11月27日(水)-12月27日(金)
12:00-19:00 土曜日と最終日は17:00まで 日曜休廊
赤瀬川原平
秋山祐徳太子
石内都
篠原有司男
田中信太郎
中西夏之
中村宏
吉野辰海
「自画像」と聞いて思い起こすのは、回顧展の入口に飾られる若かりし作家の姿や、苦悩や矜持を滲ませた巨匠たちの名画、そしてSNS上に溢れ返るセルフィー(自撮り)もまた現代の自画像と言えるのでしょうか。いずれにしても、自分の顔は鏡やレンズを介してしか視ることができないので、自己の姿や思想、時代性などを、自らの表現によってリフレクト=反射/内省/投影して、立ち現れてくるものが自画像と言えるかもしれません。
本展では、1960年に結成した伝説の前衛芸術グループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」で従来の芸術概念に反旗を翻した赤瀬川原平、篠原有司男、田中信太郎、吉野辰海、「ハイレッド・センター」で先鋭的な活動を繰り広げた赤瀬川、中西夏之、ブリキ彫刻や都知事選パフォーマンスで知られる秋山祐徳太子、独学で写真を始め、時間の痕跡や記憶を表現し続ける石内都、「絵画者」を名乗る中村宏の、1950年代から2024年の最新作まで、22点の自画像を紹介します。
自撮り画像のデジタルデータが世界中を漂い、AIが驚異的な勢いで進化するいま、自らを貫いて生きてきた美術家たちの、自己と真直ぐ向き合った作品をご覧ください。
赤瀬川原平
AKASEGAWA Genpei
赤瀬川原平は1989年~2000年まで、武蔵美(ムサビ)の同窓、秋山祐徳太子、アンリ菅野と3人で写生旅行に赴き、盛んに風景画を発表していた。このスケッチブックは菅野亡き後、ライカ同盟のメンバー(秋山、高梨豊)とスケッチ旅行した際に描いた風景画18枚(鉛筆・水彩)の最後のページに描かれた印象派風の自画像で、自宅で2日間かけて描いたもの。芸術~反芸術~非芸術~限界芸術~超芸術~芸術と輪廻した赤瀬川だが、90年代以降からは描くことそのものの喜びが感じられる。
赤瀬川原平 AKASEGAWA Genpei(1937-2014)
神奈川県生まれ。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵科中退。1960年ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを、1963年ハイレッド・センターを結成。千円札裁判、路上観察学会、ライカ同盟、執筆活動など芸術活動は多岐にわたる。1995年「赤瀬川原平の冒険-脳内リゾート開発大作戦」(名古屋市美術館)。2014年「赤瀬川原平の芸術原論展-1960年代から現在まで」(千葉市美術館)。
秋山祐徳太子
AKIYAMA Yutokutaishi
秋山が2020年に没した後、遺品整理をしていた時に発見されたペンによるドローイング。どのような経緯で描いたのかは不明だが、帽子や髭など明らかに秋山の特徴を示す自画像である。軽妙なタッチのペン画で肩の力を抜いてさらりと描きあげたそれは、秋山が自宅のベランダでブリキ男爵の制作をするときに、鼻歌を口ずさみながらハンダ付けする気分と通じているように感じる。それにしてもつぶらな瞳がかわいらしい。
秋山祐徳太子 AKIAYAMA Yutokutaishi(1935-2020)
東京都生まれ。武蔵野美術学校彫刻科卒業。1970年代よりブリキによる彫刻作品を発表。1975年と79年の2度にわたって、政治のポップアート化を目指して東京都知事選挙に立候補し、選挙メディアを介した芸術活動を展開。ライカ同盟で写真の発表も行う。1994年「秋山祐徳太子の世界展」(池田20世紀美術館)。2011-12年「秋山祐徳太子+しりあがり寿 ブリキの方舟」(広島市現代美術館)。
石内都
ISHIUCHI Miyako
石内都は群馬県桐生市で生まれ、6歳で横須賀に引っ越すまでの幼少期をそこで過ごした。6年前(2018年)、石内は生まれ育った桐生の街に仕事場を移した。かつて絹織物業などで栄えていた桐生を石内は「栄枯盛衰があちこちに落ちていて面白い」と語る。廃墟と化したスナックのピンクの壁とドアに絡まる枯れた蔦。割れたガラスに映りこむ自身の姿に、滅びゆくものに寄り添う石内の心境が反射する。
石内都 ISHIUCHI Miyako(1947- )
群馬県生まれ、横須賀育ち。多摩美術大学染織専攻中退。独学で写真を始め、時間の痕跡や存在と不在、記憶を表現し続ける。1979年第4回木村伊兵衛賞受賞。2005年第51回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表。2014年ハッセルブラッド国際写真賞受賞。2015年「Postwar Shadows」J・ポール・ゲッティ美術館(LA)。2017年「石内都 肌理と写真」横浜美術館。2024年「石内都 STEP THROUGH TIME」(大川美術館)。
篠原有司男
SHINOHARA Ushio
2024年に描き上げた最新作は、白内障手術をした後に描いた作品で、驚くほど世界が鮮やかになったと感じたという。右手(向かって左側の手)のアッパーカットはスピードが速すぎて、消えているように見える。十八番のボクシング・ペインティングと自画像が合体したエキサイティングな構図、蛍光色を駆使したヴィヴィッドな画面には、パンチを炸裂する92歳を超えてますますパワフルなギュウチャンの躍動的な雄姿が激写されている。
篠原有司男 SHINOHARA Ushio(1932- )
東京都生まれ。東京藝術大学美術学部油絵科中退。1960年ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成。1969年ロックフェラー奨学金によりNYに渡り、永住。2014年映画「キューティー&ボクサー」がアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされる。2005年「篠原有司男 ボクシング・ペインティングとオートバイ彫刻」(神奈川県立近代美術館鎌倉)。2017年「篠原有司男展 ギュウちゃん、“前衛の道”爆走60年」(刈谷市美術館)。
田中信太郎
TANAKA Shintaro
かつてブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)の前に設置されていた《ブランクーシ・ラプソディ》をはじめ、田中信太郎の彫刻にはブランクーシへのオマージュといえる卵形が随所に登場する。思考や夢想を生み出す頭部を象徴する卵形は、生命の起源や誕生のイメージと重なる。ブランクーシを思わせる卵形の顔に鉛の眼が、そして優しげに描かれた顔には銅の眼がはめ込まれている。田中の造形の原点と同期(シンクロ)する自画像である。
田中信太郎 TANAKA Shintaro(1940-2019)
東京都生まれ。フォルム洋画研究所に学ぶ。1960年ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに参加。緊張感と優美さを内包したミニマルな作品を数多く手がける。1969年「第6回パリ青年美術家ビエンナーレ」(パリ市立美術館)。1972年第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表。2001年「田中信太郎-饒舌と沈黙のカノン」(国立国際美術館)。2020年「田中信太郎-風景は垂直にやってくる」(市原市湖畔美術館)。
中西夏之
NAKANISHI Natsuyuki
中西夏之が残した唯一の自画像は、昇る朝日を背景に自宅の庭で撮影されたもので、重々しいタブローではなく、写真の画面をカラーコピーしてわざわざ粒子を荒くし、不確かな場面を演出している。洗濯バサミは容赦なく髪、顔、衣服を挟み我々の痛覚の共感覚を刺激し、その重さを確認する如く手のひらには愛用の剛球(ベアリング球)が収まる。ともに中西にとって制作の重要な道具(ツール)であり、自身に向けたメッセージのようでもある。大小のパンチで穴をあけることで、白のドットが画面を漂い、それがレイヤーとなって顔や身体、背景などお構いなしに覆っている。抜けたドットによってできる空白は写真の現実感を損ない視覚を多元化する。その空白は強烈な光にも感じられるし、無を象徴しているようにも思える。
中西夏之 NAKANISHI Natsuyuki(1935-2016)
東京都生まれ。東京藝術大学美術学部油絵科卒業。1963年ハイレッド・センターを結成。絵画という概念について根源的な思索を深めながら制作を展開。1997年「中西夏之展 白く、強い、目前、へ」(東京都現代美術館)。2008年「中西夏之新作展 絵画の鎖・光の森」(渋谷区立松濤美術館)。2012-13年「中西夏之展 韻 洗濯バサミは攪拌行動を主張する 擦れ違い/遠のく紫 近づく白斑」(川村記念美術館)。
中村宏
NAKAMURA Hiroshi
このポートレイトは稲垣足穂と中村宏との共著『地を匍う飛行機と飛行する蒸気機関車』の口絵の一つ。編集は松岡正剛。銅凸版を蝶番によって連結した特装版で、入手困難な貴重本である。足穂を敬愛していた中村は、この著作の中で装幀を手がけるとともに、足穂との対談も行っている。この作品は、機械やエロスを偏愛する足穂への賛辞ともいえるイメージに、細密描写した自身の顔を組み合わせることで、その世界への同化を試みている。
中村宏 NAKAMURA Hiroshi(1932- )
静岡県生まれ。日本大学芸術学部在学中、青年美術家連合に参加。1950年代にルポルタージュ絵画で注目を集め、その後「モンタージュ絵画」「観念絵画」など独自の方法論による作品を展開。2007年「中村宏|図画事件1953-2007」(東京都現代美術館/名古屋市美術館)。2010年「タブロオ・マシン〔図画機械〕-中村宏の絵画と模型」(練馬区立美術館)。2015年「絵画者 中村宏展」(浜松市美術館)。
吉野辰海
YOSHINO Tatsumi
吉野辰海の新作は、FRP製の頭部自刻像にサングラスをかけさせ、犬や猿のお面5点を付属として添えたもの。原寸大の頭像は、実測して鏡を見ながら拵えた塑像だが、まるで本人から型取りしたのではないかと思えるほど正確で特徴をとらえている。吉野はそのリアルな頭部に、個性を消すためのサングラスとカラフルで戯作的なお面をあえて被せることによって「個性(自画像)が喪失している時代を生きている」今という時代に問いを突き付けている。ユーモアに風刺を利かせる吉野の真骨頂である。
吉野辰海 YOSHINO Tatsumi (1940- )
宮城県生まれ。武蔵野美術学校油絵科中退。1960年ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに参加。森羅万象の運動を「犬」の形象に宿した作品を数多く作り続ける。2002年「熊本国際美術展 ATTITUDE 2002」(熊本市現代美術館)。2007年「六本木クロッシング2007:未来への脈動」(森美術館)。2012年「清水晃・吉野辰海 漆黒の彼方/犬の行方」(埼玉県立近代美術館)。
作品解説:菅 章(美術史家/美術評論家)
展覧会カタログ『自画像:Reflections』 巻頭テキスト
《自画像、あるいはリフレクトする自己との対話》
菅 章(すが・あきら 美術史家/美術評論家)
Ⅰ 自画像―描く美術家と描かない美術家
ギャラリー58の自画像展は2012年以来2度目の開催である。「日本の美術界をリードし、自らの表現を貫いて生きてきた美術家は『いい顔』をしている。その顔を、新作で(今の自分の表現で)作品にしてほしい」という画廊主の純粋な想いから出発したのが12年前の自画像展であった。メンバーは当ギャラリーが親しく付き合ってきた旧ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(ネオ・ダダ)をはじめとする戦後の前衛をひた走った1930年代から40年代生まれのディープな美術家たちが主流だ。
依頼をしてみると、これまでいくつかの自画像を描いてきたものと、ほとんど描かなかったものに二分された。前者は赤瀬川原平、秋山祐徳太子、篠原有司男、中村宏、吉野辰海、後者は石内都、田中信太郎、中西夏之らである。ルネサンス以降、画家(彫刻家)にとって自画像は必須アイテムといってよく、修行時代に数点くらい遺しているし、巨匠と呼ばれる画家も少なからず描いている。中にはレンブラントやファン・ゴッホ、中村彝、岸田劉生、松本竣介のように、自画像が主題(テーマ)と密接に結びついた画家もいる。ある意味それは自画像をとおして自己言及、自己探求を深める近代という時代精神の産物であったともいえよう。また、若い画家にとって自画像は身近な素材、モチーフであり、重宝な習作の定番となっている。
それだけに自画像を描かなかったという美術家は、稀有な存在であり、依頼のハードルも自ずと高くなる。初の自画像制作依頼を快く受けてくれた田中信太郎のようなケースは稀で、中西夏之のように卒業制作で自画像を併せて提出する伝統をもつ東京藝術大学(油画専攻)出身でありながら、自画像を提出しなかった筋金入りの反自画像(アンチ)派もいる。
案の定、中西から断られ、石内は描いた(写した)ことがないという理由で留保した。ところが後日(なんと中西は翌日に電話で出品を了承)、この2名とも新作を出品することになった。画廊主がどんな殺し文句を弄したかは聞き及んでいないが、そこには自画像をめぐる時代と美術家のスリリングな関係を見る思いがする。「描かない(なかった)」にはそれなりの理由があるだろうし、自画像を描いてきた美術家も、改めて出品するとなると単なる習作や余技というわけにいかず、自身の制作歴や芸術観との参照や関係性が問われる。いずれにせよ、前回の試みはかなり無謀であった分だけ、依頼者の意図を超えた嬉しい誤算が展覧会の副産物として随所に現れた。最晩年の貴重な自画像となった赤瀬川の《ハレーション》《顎》の凄み、生涯唯一の自画像となった中西の《光の顔の朝》の謎、フリーダ・カーロの「ブルーハウス」を背景に、自身の影を撮ったセルフ・ポートレイトを出品した石内が、その後セルフ・ポートレイトを撮るきっかけとなったことなど、前回の自画像展はアーティスト自身にとっても重要な節目や転機となった部分があったといえよう。
Ⅱ 自画像にみる新たな様相と可能性
今回の自画像展は、前回とほぼ同じメンバー(池田龍雄が不出品)ながら、状況的にかなり異なっている。12年が経ち60年代、70年代に綺羅星のごとく輝いた美術家の訃報が相次いだ。当時健在だった出品者の半数以上(赤瀬川、秋山、池田、田中、中西)が鬼籍に入り、現在活躍中のアーティストも90代(篠原、中村)、80代(吉野)70代(石内)と年齢(とし)を重ねた。それゆえ、今回は物故者も含めた新旧作を交えての展観となった。そのような条件の中で、スケジュールや健康状態を調整しながら新作を制作・出品した現役アーティストの心意気や、出品や資料提供を惜しまない遺族の協力もあって、新たな様相が垣間見える自画像展となった。
今回22点の出品作のうち、新作は5点、前回と同じ作品が8点、旧作が9点である。素材・技法もデッサン、水彩、アクリル、写真、印刷物、彫刻など多種多様だ。展覧会タイトル『自画像:Reflections』は「自らの表現によってリフレクト=反射/内省/投影して、立ち現れてくるもの」を意図しているという。その立ち現れ方は一定であるはずがなく、ダイレクトな反射、乱反射や鈍く引き寄せるものから、光を放つものまである。
赤瀬川原平の50年代前半に描いたデッサンの自画像は、学生時代の習作(同時期に描いた油彩画のエスキース)と思われる。ネオ・ダダ、ハイレッド・センターといった前衛を潜り抜け、千円札裁判などの苦難な体験を経た後にパロディジャーナリズムや小説へと展開。印象派風の水彩画の自画像(2002年)ではゲージュツを楽しむ境地に至った。さらに最晩年の病と向き合った自画像(2012年)もある。3つの時期の自画像は、背景や手法の違いもさまざまで比較すると興味深い。
ニューヨークで活躍する永遠のネオ・ダダイスト篠原有司男の自画像は、彼のすべてのタブローに言えることだが、どこを切っても金太郎飴のようなギュウチャンが出現する。それは紋切り型という意味ではない。自画像はボクシング・ペインティング同様、篠原有司男の「胆」であり、アップ・デートされた自己表現の現在進行形が刻まれているのである。
やはり旧ネオ・ダダの吉野辰海は哀愁味を帯びた犬の彫刻で知られる。擬人化された犬は吉野の分身ともいえ、それ自体が自画像のようだ。近年はポップな作風とブラックユーモアのセンスが光る。今回の新作《此処へ No Name》では、珍しく自らの立体頭部像を提示。そっくりにつくった自身の頭部を晒(さら)しつつ、お面(仮面)やサングラスで隠すことによって、非個性化した現代社会を批評するという手の込んだ仕掛けを採用した。
吉野の盟友でネオ・ダダの若手だった田中信太郎は、60年代末から表現の極北であるミニマルアート的表現に移行した。ミニマリズムは作品を極限化し物量が最小化される。同時に自身の病も加わり80年代初頭には自己消滅の危機にも瀕した。そんな田中を救ったのは生命力や優美なイメージとしての卵形であった。80年代半ばから有機的で優雅な造形へと変容し、物語性や文学的題材も加わった。そんな田中のエリック・サティやブランクーシへのオマージュを自己に重ねた作品には、作家ならではの洒脱さが感じられる。
ネオ・ダダと同世代の中村宏は社会主義リアリズムの嵐の中、米軍基地反対闘争を実施取材した「ルポルタージュ絵画」で早いデビューを果たした。その後も「モンタージュ絵画」、「観念絵画」や「観光芸術(絵画)」を提唱するなど、絵画の可能性を追求した。自らを「絵画者」と名乗る中村の自画像には、独自の方法論によってタブローを理論化し、新たな絵画表現を切り開いてきた画家の矜持が込められている。
ブリキ彫刻で知られる秋山祐徳太子の選挙公報用の葉書やポスターは純然たる自画像とは呼びにくいが、都知事選立候補と選挙運動そのものが、政治のポップ・アート化を目論む秋山の芸術プロジェクトであった。そこには「泡沫候補」と呼ばれながらも強烈に自己を演出するトリックスターの姿があった。
ハイレッド・センターの活動が終わった64年以降、再び独自の絵画を展開していった中西夏之。そんな中西が、なぜ自画像を描かなかったのか、そして描かなかった自画像をなぜ制作したのかは謎である。しかし、なぜか自画像の特集に執筆している(1975年9月号の『美術手帖』「特集 自画像」)ところを見ると、自画像が中西の中で隠れテーマとして培養されていた可能性がある。中西は描きたくなかったのではなく、描きたかったけれど時宜を逸し、そのチャンスをうかがっていたのかもしれない。
唯一戦後生まれの石内都は、独学で写真を始め、記憶や喪失感を独自の視点で切り取る。自らが育った基地の街、横須賀を題材にした作品や母親の傷や遺品、ヒロシマの被爆者の遺品、フリーダ・カーロの遺品などの撮影をとおして、女性性や時間、記憶をテーマに、人はいかに喪失と向き合うのかを問い続ける。石内が自画像(自写像)を撮らなかったのは、自らの傷跡(トラウマ)ともいえる横須賀や、身近でありながらうまく関係を築けなかった母の存在など、自己の写し鏡とまず向き合わなければ過去、歴史を清算できなかったからであろう。自画像の画家でもあるフリーダとの出会いは、そんな石内を自身に向けるきっかっけとなったのかもしれない。今回は、出生地桐生市への移住を契機に、自らの原点を時間と記憶の間でリフレクトする自画(写)像として撮り下ろした。
自画像は単なる自身の姿の再現にとどまらず、もう一つの「私」を他者の目から見つめなおす行為であったり、自我の不確定性を託す仮面(ペルソナ)であったりする。極論すれば、美術家にとってすべての作品が自画像の変奏ともいえるし、それをあえて描かないとするものにとっては、そのことを隠蔽したいという傷跡(トラウマ)が深層に潜んでいるのかもしれない。
Ⅲ 次代へのメッセージ
急激に変化する社会状況に目を向けると、デジタル化、ネットワーク化の進展はとどまるところを知らない。スマートフォンやタブレット端末といった情報機器の進化・普及と交流サイト(SNS)をはじめとする高度情報通信社会の整備・拡張は、この10数年間で人々の行動様式を変質させた。そのような時代における自画像の可能性とはどのようなものであろうか。SNSに投稿されるおびただしい自撮り(セルフィー)は、現在の自画像なのだともいえる。しかしそれは個人を表現するためだけのものでなく、ネットの世界に自分を溶け込ませる手段にもなっている。とりわけデジタルネイティブ世代の完成形、Z世代の若者のセルフ・ポートレイトは、埋没されがちな自己の存在を世界に示すツールなのかもしれない。エゴサーチが盛んな現在、他者の視線を過剰に意識し、プライバシーとセキュリティ、自己と社会などさまざまな境界が曖昧になり、侵犯される危険性におびえながらも自分らしさを模索するためにセルフィーはネット上で繰り返し投稿される。そのような状況だからこそ若い世代に、戦後の前衛や反芸術の立役者といえる人たちの一癖も二癖もある強者、曲者の「いま・ここ」におけるさまざまな「自画像=自己のあり方」を見てもらう意義は計り知れないだろう。
これほどの振れ幅の大きさとさまざまな周波をもった今回の自画像展には、現代の表層に漂うセルフィーな自己にリフレクト(反射/内省/投影)して対話を深めるためのメッセージが込められていると思っている。