中村 友香 Yuka Nakamura
2006.7.17(Mon)-7.22(Sat)

1979年 生まれ
2003年 東京藝術大学 美術学部 絵画科油画専攻卒業
2005年 東京藝術大学大学院 美術研究科絵画専攻 修士課程修了
2005年 東京藝術大学美術学部絵画科油画(上野)教育研究助手

<個展>
2004年 「空いた場所 - spaces」 GALLERY+BAR Julep (池尻)
      「それぞれの日常点1」 GALLERY千空間 (代々木)

<グループ展>
1999年 「創作展」東京藝術大学取手校地(取手)
2000年 「その人までの遠近法ー11組の2人展ー」
       gallery art aoko (下高井戸)
2004年 「日常ジャンクション」展 東京藝術大学大学会館 (上野)
2005年 「にゅうす展」 東京藝術大学大学美術館陳列館 (上野)
      「あおによし2」 GALLERY千空間 (代々木)
2006年 「ART/ROOM]展 アートフロントギャラリー (代官山)

<受賞歴>
2004年 TURNER ACRYL AWARD2004 入選
2003年 トーキョーワンダーサイト0号展2003 入選


作家コメント

ひとは常に「風景」に囲まれて生活している。

ここで言う「風景」とは、
わざわざそれを観るために足を運んで観るものではなく、
いつもそこにある、いつも通り過ぎる、しかしながら省みる余裕がない場合が多いであろうもののことである。
現実的な場所として身近すぎるがゆえに、一方では遠い存在となっていることが多いであろうもののことである。

そこに注目する対象があるとすれば、それ以外の周りにある背景的存在、
つまり「風景」はあまり気にとめられないものなのかもしれない。
例えば、今日上野に来るまでの間にどこかを「みる」のではなく「眺める」行為をどのくらいしただろう。
「眺める」とは、距離を持ってある方向に目を向けることであり、
関わるわけではなく傍らで見ていることであり、
「みる」よりも、どこか緩い行為なのである。

注目する対象とは、日々とらわれてしまっているものであり、
背景的存在とは、当たり前にそこにあるものとを置き換えることもできるだろう。
ときとして、常にあるその「風景」を「眺め」て、見い出すことは
あることが当然と思っているそれを自覚することになる。
密着を解いてようやくそれに気が付くことになる。
それは本来、「風景」に囲まれて生活しているものには不可欠なことなのである。
しかしこのところでは、そのような機能の働きがいまいち鈍り気味であると感じる。
自ら意識的に「緩衝地帯」をつくり出す必要もあるかもしれない。
止まる、もしくは走るしかボタンのない車のように、
0もしくは1のどちらかの数値しかないデジタル的意識が蔓延している中で、
0と1以外、または0と1との間を連続的に繋げる「緩衝地帯」が存在するような
アナログ的意識をたまには考えてみてもいいかもしれない。

左 「マツノヤマ1」 MATSUNOYAMA1 
右 「マツノヤマ2」 MATSUNOYAMA2 
You cannot see the wood for the trees. : 木を数えて林を忘れる
アクリル・綿布・パネル 各20×60cm 2006

左 「ヨドガワ1」 MATSUNOYAMA1
中 「ヨドガサ2」 MATSUNOYAMA2
右 「ヨドガワ3」 MATSUNOYAMA3
Water finds its own level. : 水は逆さまに流れず
アクリル・綿布・パネル 各60×150cm 2006

左 「サンポ1」 SANPO1
右 「サンポ2」 SANPO2
The farthest way about is the nearest way home : 最も遠い方法で、最も近い帰途
アクリル・綿布・パネル 各50×150cm





『別冊文藝春秋』 (隔月発売)の連載小説 『私の男』 (桜庭一樹著) の扉絵を
2006年9月号から1年間担当することになりました

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